私の毎朝の習慣化で、瞑想の後の読書の時間になり、背中を押されるように本棚へ。一冊の本を手に取った。以前から気になっていた本で、積読になっていた。目次を見た途端、禅の心、仏教のゴールとは何か!・・・飛び込んできた。
何かに取り付かれるように、手が本棚へ向かい、自分の意識ではなく、無意識がそうさせた不思議な感覚がを覚えた。
茶道に入門し、ここ一年は、茶禅一味の世界を求め、禅と工藝、柳宗悦氏の民藝、工藝、そして中島岳志著「思いがけず利他」の利他の心に興味を持ち、思索を続けている。
禅と真我と利他の世界
①手に取った本は、「心」(稲盛和夫著)であった。
禅宗系の真我・悟りの境地とは
一年前までは、「内面的な「自」と「他」の垣根を取り払うことが、「利他の精神」・「一つの世界」につうじる世界が「禅の心」だと言われて、全く理解できなかった自分だった。
本書では、禅の修業していると「悟り」の境地といわれているものがある。それは、静かで純粋な至福のの境地で、素晴らしい喜びに満ちている。これこそが、「真我」(しんが)であるという。
「利他の心」、やさしく美しい思いとは、真我の働きによるものです。
また、真我とは、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものであると説く。実に明快で、腑に落ちた瞬間であった。
人の心の奥には「魂」といわれているものがあり、そのさらに奥深く、核心ともいうべき部分には、「真我」というものがある。それはもっとも純粋で、もっとも美しい領域です。
ふだん私たちは、真我の外側に、「知性」「感性」「本能」といった心を幾重にもまとってしまっているが、誰もがその奥底に、この上なく純粋で美しい真我を持っている。利他の心、やさしく美しい思いとは、この真我の働きによるものです。
そして、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものと考えています。(本文)
人の心のもっと深いところにある「真我」にまで到達すると、万物の根源といえる宇宙の心と同じところに行き着く。したがって、そこから発した「利他の心」は現実を変える力を有し、おのずとラッキーな出来事を呼び込み、成功へと導かれるのです。
(「心」稲盛和夫著)
浄土宗系の真我・悟りの境地
(一葉舟:ひとはぶね 著作:岡潔 角川ソフィア文庫)
②次に手に取った本は、
数学者の岡潔先生の『一葉舟』の中で、タイトル「真の自分の心」(真我)を説いています。
仏教では、小我は迷いであって真我が自分だと教えている。真我とは本当の自分である。と説く。
さらに、仏教は、こう教えている。本当の自分(真我)とはどんなものかといえば、
「真我の心は同体大悲である。これはひとの心の悲しみを自分の心の痛みのごとく感じる心という意味である。心とはここでは、情的にいえば、という意味である。」
*天才的な数学者、岡潔先生は、弁栄上人こと「山崎弁栄」・仏教僧との出会いがあり、念仏を唱えてから研究に勤しんだ。とあり、仏教に精通しており、随筆に数多く寄稿されてます。
「人は普通自分のからだ、自分の感情、自分の意欲を自分と思っている。これを仏教では小我という。ごく小さな自分という意味である」というのです。これが自我というものです。般若心経でいう五蘊(ごうん)、五つの構成要素を自分だと思い込んでいるのです。更に「欧米人は自分とは小我のことだとしか思えない。それで個人といえば小我の意味である」と指摘されています。
「ところが仏教は、小我は迷いであって真我が自分だと教えている。真我とは本当の自分である」と説かれています。
禅の修行について、「仏道の修行法にはいろいろあるが、すべて小我の迷いを離れて、真我を自分と悟るためにするのである」(一葉舟 著作岡潔 角川ソフィア文庫)
真我の内容
以上、禅宗系と浄土宗系の悟りの境地は、心の奥底にある「真我」という領域であり、純粋で、美しい領域だと理解はできた。
その「真我」は、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものです。又、真我の働きによる「利他の心」は、現実を変える力を有し、おのずとラッキーな出来事を呼び込み、成功へと導かれるのです。と稲盛和夫氏は説く。
正月早々、この様な無意識な行動が、私の心の扉を開き、そこには霧が晴れわたり、「真我」の世界が見えてきた。
悟りの境地への道のり
我々凡人は、悟りの境地へ簡単には、届きません。一歩でも悟りに近づくべく心を磨いていくしかありません。その不断の努力こそが、人生そのものだと稲盛さんは言う。
そのためには、瞑想でも座禅でも、毎日短い時間、心を安らかに鎮めるひとときをとることによって、真我の状態に少しでも近づくことができる。と言う。
人生の目的とは
真我の状態に少しでも近づくことができることが、人生全般を「豊かで実りあるものにしてくれる」一助となる。私は、1年半前から、毎朝瞑想をし、その後の読書という作業を習慣化して、豊かな心の一部を享受してます。
人生の目的は、心を磨き、他に尽くすこと。(稲盛和夫)
心の扉の原点
昨年の京都茶の湯ツアーのあの深夜に、訪れたお店「喫酒 幾星」で、同志と語り合った。そこから私の「心の旅」が始まった。その後の心の変遷には、「ご縁」による種まきがあり、それを育てて、次々と心の扉を開けてきた。
縁起
そのことは、仏教でいう「縁起」を感じます。打合せもなく「喫酒 幾星」で同志としての話題で、心が通じ合い、まるで奇跡という出会いであった。
無数の可能性のある中から、極めて限定的な出会いで、心が触れ合い、次へとご縁が連鎖していく、そこに「我」が存在する。
私は、常に縁起的現象として存在していると確信した瞬間であった。
「茶道と禅」「禅と工藝」、柳宗悦氏の「民藝、茶と美」、そして「利他の心」へと心の扉があけられた。そこには、目に見えない「縁起」によって変化し続ける「私」の存在を忘れてはならない。
それらは、最初は、点でしかなかったが、扉を開けていくにつれ、面として繋がりその結果、そこから見えてきたものがあった。
現代社会で見えなくなったもの
それは、戦後の教育や情報化社会になって、個人を大事にすることや自己の利益を優先するという現代社会の歪が原因で、見えにくくなっている「大切なもの」があるのである。
その大切なものとは、
人間は何のために生きるのか、人生の目的である「心を磨くこと」、「利他の心」である。
それを紐解いていくことにする。
禅と工藝
この小雑誌「禅と工藝」は、我々同志のバイブルとして、心の支えになっております。
以下の内容を詳細に紐解いていきます。
心の平穏を求める「禅」と日常の暮らしの中に美をもたらす「工藝」にある深い共通点は、自分の内と、命と向き合う毎日の営みに通じるものがあります。
「禅」
禅は、すべての宗教の基礎に在るもので、「心の世界」「命」を見つめること。人間が生きる上での、最も基本的な在り方を気づかせてくれる。
日本の仏教は、「浄土宗系」と「禅宗系」がある。目指すゴールは同じである。
違いは「浄土宗系」は、自分とゴールとの間に「阿弥陀仏」や「極楽浄土」を置き、「禅宗系」は、自分自身を通してゴールを目指す。
そして、「禅」の目指す悟りとは、日々のちょっとした気づき、自分を変えてしまうような大きな気づき、その時々の気づきを常に感じて見つめることである。
工藝
「民藝」とは、1925年に柳宗悦(1889〜1961)、濱田庄司(1894〜1978)、河井寬次郎(1890〜1966)によってつくられた新しい美の概念で、「民衆的工芸」を略した言葉です。
日本民藝館の創始者である柳宗悦氏を知ったのは、「リーチ先生」原田マハ著を同志から紹介された。
バーナード・リーチは、日本民芸館の初代館長となった柳宗悦氏を中心とした「白樺」や「民藝」の同人たちと交わり、近代日本の文学や芸術に大きな影響を及ぼしたことが感じ取れる。
茶碗は高麗
(大井戸茶碗:喜左衛門)
柳宗悦氏は、工藝品の一つである「陶磁器」に美を見出し、特に「茶碗は高麗である」とその美しさ絶賛した。
昨年秋に、日本民藝館で開催されてる展示会に行った。「茶碗は高麗」と言われていたので、展示品の大井戸茶碗「山伏」にくぎ付けになった。じっと対峙すると、「直観」で温かいものを感じた。
すると、柳宗悦氏の囁きが聴こえてきた。
高麗茶碗は、日常生活で使われてる飯茶碗の雑器であり、無心に轆轤(ろくろ)を回した凡夫(工人)の姿、その質素さに徳があり、美の本質がある。と・・・
初代の茶人(武野紹鷗・利休)達の「高麗茶碗」を見出す「眼力」が無ければ、現在の茶の湯は存在しなかった旨の柳宗悦氏の言葉が蘇った。
美の宗教
柳宗悦氏は、「高麗茶碗」の「美の本質」を浄土宗系の「他力」と結びつけた点が実に興味深い。
「どうして美のことなど知らぬ無名の職人たちが、沢山作るものが美しくなるか?」
その疑問の回答は、柳宗悦氏は、浄土真宗の真理である「歎異抄」の中にある「凡夫成仏」に求めた。
「凡夫成仏」とは、念仏をとなえること。即ち、阿弥陀仏(仏)が我が名を呼ぶものは、どのような人間であったとしても、浄土へむかえると誓っている
「専修念仏」「凡夫のままで、そのありのままの姿で阿弥陀仏によって救われていく」
「凡夫」を「無名の職人」と読み替え、「救われていく」を「美しくなる」と読み替える。
「民芸の美」が浄土真宗という「他力」の宗教で説明できると確信したと柳は言う。
「真我」の働きによる「利他の心」の本質
(中島岳志著:思いがけず利他)
本書は、東京工業大学未来の人類研究センターの「利他プロジェクト」進める過程で書かれたもので、実によくまとまっている。
利他とは
利他は、自己を超えた力の働きによって動き出す。利他はオートマティカルなもの。利他はやって来るもの。利他は受け手によって起動する。そして、利他の根底には、「偶然性の問題」がある。
①私たちが利他的であろうとするとき、そこには利己的な欲望が含まれていることも見てきた。
②職人は、長い年月をかけた修行と日々の鍛錬の積み重ねの上で、偶然を呼び込みます。窯変は、蓄積された経験と努力のもとにやって来ます
③他力本願、大切なのは、自分の限りを尽くすこと。自分で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そうして、自己の絶対的な無力に出会います。重要なのはその瞬間です。有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。④そして、その瞬間、私たちは大切ななものと「邂逅」し、「あっ!」と驚きます。これが偶然の瞬 間です。⑤重要なのは、私たちが偶然のを呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。偶然が宿る器になることは可能です。そして、器にやってくるものが「利他」です。⑥器に盛られた不定形「利他」は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、「利他」は姿を現し、起動し始めます。(本文)
このような世界観の中に生きることが、私は「利他」なのだとおもいます。と中島先生は語る。
従って、我々は、「煩悩具足の凡人」であることを自覚した上で、以下のことを実践すれば、利他的に生きることができるのである。
利他的に生きる方法
①毎日を精一杯いきること。
②私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で、為すべきことを為す。
③能力の過信を諌め、自己を超えた力に謙虚になる。
④その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになる。
本書で、利他の説明で一貫してるのは、浄土真宗の親鸞の教えを元に利他の真髄を説いている。
「業」の本質は与格的構造にあると中島先生は言う。
「業」とは仏からやって来る力です。この「仏業」が宿ったとき、私たちは「浄土の慈悲」の器になります。ここで行われるオートマティカルな行為こそ、利他的なものです。それは、どうしようもないもの。あちら側からやってくる不可抗力です。
①本書で取り上げてる事例の一つとして、落語「文七元結」の人情噺があります。
長兵衛はなぜ、吾妻橋で面識のない青年(文七)に五十両という大金を渡したのか?
②料理家の土井善晴さんは、柳宗悦氏と民藝をたちあげた一人、河合寛次郎記念館で、人間が美しいものを作ろうという「計らいが消えた」ところに美がやってくることの本質に触れた。
「自分が歩いた後から美しいものが追いかけてくる」、河井寛次郎の言葉に心頭した。
この様な時代にもっとも必要なもの、「人間は何のために生きるのか」という根本的な問いです。
私はサラリーマン時代には、効率良く仕事をこなすこと、事業部のリーダーとして組織をまとめ利益をあげること、そして新規事業を模索するためにプロジェクトを立ち上げことに奔走した。
自分の心の内との対話は皆無に近い状態であった。退職時に参加した「当事者意識研修」が唯一の自分を見つめる時間だった。
それから数年後、両親が亡くなり遺品の整理で出会った母の茶道具や茶道から見えてきた、生き生きとした世界、
そして父の30年間の陶芸作品の数々に触れ、眠っていた私の心の無意識が動き出した。
それは、仏教の「縁起」が、私の心で生じた現象だと感じました。
そして、ビジネス茶道、茶道入門と心の扉が開き、「豊かな心」を求めて心の旅は続いていく。
閉塞感のある現代社会で見えにくくなっている「大切なもの」、それは「人間は何のために生きるのか」言い換えれば、「人生の目的は、心を磨き、他に尽くすこと」である。
それは、命と向き合い、毎日を精一杯いきること。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で、為すべきことを為す。(稲盛和夫)
この世界は、利他の世界でもあります。
先日見た映画「土を喰らう十二ヵ月」の料理指導した土井先生、料理の数々の映像が走馬灯のように浮かんできた。
いっしょのご飯がいちばんうまい」
まさに、それは「人間は何のために生きるのか」言い換えれば、「人生の目的は、心を磨き、他に尽くすこと」の世界観に通じるものを感じました。
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