質問すれば人間のような文体で即答する対話型AI(人工知能)は、公開されてから1年余りが過ぎた。毎日使っていて、全て万能かといえば、フェイク(偽)情報の生成、拡散がある。
且つAIは、正しいとの思い込みがまん延している。一方で、アメリカの未来学者レイ・カーツワイルが提唱したシンギュラリティの時代が、2045年にはやって来ると言う。本当に人口知能(AI)が、人類の知能を超えることがあるんだろうか、賛否両論あるようだ。
この様な混沌とした生成AIを議論の中、AIは、「自意識」があるか?
「意識の機能は受動的で、幻想である」という「心の地動説」の視点(前野隆司先生)から見えてくるものがある。
意識の機能は受動的で、幻想である(心の地動説)
人間脳の働きは「無意識」が意思決定の大部分を担い、「意識」は錯覚(幻想)である。(受動意識仮説)。この視点(仕方)でものごとを考えると、宗教、哲学が分かりやすくなってきた。
冒頭のAIには、自意識はありません。近代哲学者のデカルト流に「我思うゆえに我あり」にはならない。脳は「無意識」というニューラルネットワークがあり、まだ未知の世界がある。わかっていない脳の仕組みをAIに置き換えることは、難しいと思う。
哲学や宗教について、その詳細を今まで勉強したことが無かった。そこで、心の地動説(意識受動仮説)の立場から、哲学や宗教を考察すると実に面白いことがわかった。
現代の西洋思想(哲学)は、2千5百年前の釈迦や老荘思想(哲学)と同じ
西洋思想(哲学)が、長い時間をかけておこなってきたことは、釈迦や老荘の思想へ至る道程であったということを、ニヒリズムがまさに裏付けている。
2千5百年という時を経て、西洋思想(哲学)が、釈迦や老荘思想(哲学)のニヒリズムに追いついついたのだと捉えられる(脳の中の「私」はなぜみつからない?:前野隆司著)
私は、上記の「現代のニヒリズム」が、2千5百年前の釈迦や老荘思想のニヒリズムと同じ?・・・最初は、全く理解できなかった。
宗教や哲学に関して無知であったことを恥じて、学生時代に戻ったつもりで、宗教や哲学、自然科学の成り立ちを学ぶことにした。
先ず上記の命題を紐解くには、「脳はなぜ「心」を作ったのか」の視点(仕方)から始めよう。
最近の脳科学では、人間脳の働きは、「無意識」が意思決定の大部分を担い、「意識」は錯覚(幻想)である。(意識受動意識仮説:前野隆司先生)
この立場(仕方)から考えると、以下、見えてきたものがある。
「釈迦の思想」と「意識受動仮説」は同じである。
・釈迦は、五感から入ってくる欲求をすべてをなくす境地に至り、「意識」は、錯覚(幻想)であり、受動的であると理解した。釈迦がいう「無我」(私ではない非我)と解釈する。
・「五蘊非我(ごうんひが)」という言葉がある。五蘊は、五つの心の働き、すなわち、「色受想行識」を表す。色は身体、受想行識は、様々な心の作用なので、五蘊は、身体と心の働きと言う意味だ。したがって、私たちの身体と心の働きは、我(私たちの意識)のつかさどるところではない。
釈迦は、「意識」は行為の主体でないということ、受動意識仮説の行為の主体は「無意識」にあり、
意識の側にはない。従って、両者は同じである。
そのことは、意識が幻想であるあることや受動的であることは、虚しい。すなわち、世の中むなしいと考える立場をニヒリズム(虚無主義)という。仏教は、ニヒリズムの宗教だといわれ、どうせ世界は「空」である。
釈迦の悟りは、前向きのニヒリズム
「意識の機能は受動的で、幻想である」という心の地動説(受動意識仮説)
前野隆司先生は、「意識」はすべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で「無意識」に行われた自立分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈。脳が私たちに思わせている「幻想」、錯覚のようでしかない。
「意識の機能は、受動的で、幻想てある」という考え方は、哲学者、心理学者、認知科学者の一部は認めている。最新の脳の働きについて、次のことが判明してます。
人間の意思決定や行動のほとんどは、脳の「無意識」の部分がコントロールしている。(哲学と宗教:出口治明著)
以上、「意識の機能は受動的で、幻想である」という心の地動説(受動意識仮説)は、釈迦や老荘思想と同じで、「空」の世界であり、ニヒリズムである。
西洋哲学の歴史と「意識」の能動性又は受動性について
近代哲学は、「自己意識」は存在すると宣言したデカルトに始まり、カントによってすっきりとまとめ上げる時代である。
一方、「意識の受動性」に近いスピノザやヒュームにとっては受難の時代であった。
現代の哲学は、デカルトやカントの近代哲学を否定し、実存主義、現象学、構造主義、ポスト・モダンといった思想が繰り広げられた時代の哲学であり、最終的には、ニヒリズムの時代とも哲学の終焉と言われている。
ここ数年、ニーチェの哲学に関する本が世界的に、人気を集めているといわれています。ニーチェは、「神は死んだ」と断言したうえで、それでも強い意思で生きる力が人間には備わっているのだと考え、「超人」の思想を構築した。(哲学と宗教全史:出口治明著)
ニーチェは、現代哲学におけるニヒリズムの先駆者
ニーチェは、「神は、死んだ」という言葉で、キリスト教的な価値観を否定した。神がいないということは、言い換えれば、寄ってすがるところの根本原因を喪失した人間は、本質的な目的を持たない。これがまさにニヒリズムである。ニーチェは、現代哲学におけるニヒリズムの先駆者である。(脳の中の「私」はなぜみつからない?:前野隆司著)
「我思う、しかし、「我あり」かどうかはわかるはずはない。これが、虚無主義で、釈迦の考えと同じである。
①ニーチェは、ニヒリズムを「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」に分け、前者は、仏教の ニヒリズムに該当する。
後者は、新しい価値の創造を目指すもので、「超人思想」の象徴であり、人間の最終目標で、強い人間性を表している。ニーチェは、仏教のニヒリズムにかなり親近感を持っていたようである。
②ニーチェの東洋傾倒
永劫回帰(えいごうかいき)という根本思想があります。永劫回帰とは、世界とは終わりを迎えるものではなく、何度も繰り返されるもの、という考え方です。
ニーチェは著書「ツァラトゥストラはかく語りき」で、人の生は宇宙の円環運動と同じように永遠に繰り返すと説き、生の絶対的肯定と彼岸的なものの全面否定を主張しています。
上記の永劫回帰(えいごうかいき)という根本思想は、心の地動説(意識受動仮設)では、輪廻は存在しないと考えるので受け入れられない。と前野先生は言う!
③心の地動説(受動意識仮説)の視点(別の仕方)の考察
・二十世紀現代哲学の先駆者・ニーチェが、古代東洋思想(釈迦のニヒリズム)の影響 を受けていた。
・人生は決定論的であり、何者にも束縛されない人間の自由意志など存在しない。
以上、ニーチェの思想は、心の地動説(受動意識仮説)に類似している。
まとめ
「別の仕方で考えると、見えないものが見えてきた。現代はニヒリズムの時代」のタイトルをまとめてみた。哲学や宗教の歴史すら不勉強で、日本人として恥ずかしい思いがあり、学んでみると興味津々であった。
①別の仕方で考える:「脳はなぜ「心」をつくったか」の著者・前野隆司先生の「受動意識仮説」の立場で、哲学や宗教を考えてみた。すると、哲学や宗教の歴史が、非常に興味深く理解できた。
②見えないものが見えてきた。
・受動意識仮説、意識の機能は受動的で、幻想である(心の地動説)は、現代脳科学では通説でる。
この考え方は、釈迦や老荘思想の「無我」・「空」の考え方と同じである。即ち、ニヒリズム(虚無主義)がキーワードで、同一である。
・得てして日本人が得意としない哲学は、理解するのが困難であったが、見方を変えると難解な哲学も楽しむことができる。
この点も、受動意識仮説の仕方でみると、即ち「意識」は「無意識」に対し受動的であるという視 点でみると、デカルトから始まる近代哲学そして現代哲学の創始者・ニーチェの思想の歴史背景が見えてきた。
現代は、ニーチェのニヒリズムの時代と言われている。
ニヒリズムの道程
西洋哲学(思想)が、釈迦や老荘思想のニヒリズムに、2千5百年かけて追いついた。
現代は哲学的には、ニヒリズムの時代です。その時代にどう生きていけばいいのかが問われます。
人々の歴史や個人の一生に何ら目的などなく、すべては「空」または「無」である。人生は諸行無常である。結局、本質的な目的など何もない私たちの人生の中で、私たちは、自分の目的を自己生成していくしかない。
対話型AI(人工知能)と自意識
冒頭の質問すれば人間のような文体で即答する対話型AI(人工知能)は、「自意識」を持っていません。対話型AI(人工知能)は、業務の効率化に手段として使用すればいいと考えます。
又、元グーグル米国本社副社長・日本法人社長、村上憲郎さんも、AIに自己意識を持たせるのは、困難である。が、「受動意識仮説」の視点からは、可能である。と言っている。
AIの構築は、これまで、AIに自己意識を持たせる手法として、「司令塔」つくりを目指して、失敗してきました。一方で、受動意識仮説に基づいてAIを構築するなら、さまさまな部分機能を果たす要素の集まりをつくり、その個個の機能要素が出力してくるアウトプットをただ単に観測している「観測者つくればいいということになります。(クオンタム思考:村上憲郎著)
現代の脳科学では、未知の分野が多く脳の活動はほとんどわかっていないから、脳の仕組みをAIに置き換えることは難しいのではないか・・・
「心の旅」の壁があった。
私の心の旅は、茶の湯から始まり、禅と工藝の世界へ、そして日本民藝館の創設者の柳宗悦の民藝の世界へと扉が開かれた。
心の平穏を求める「禅」と日常の暮らしの中に美をもたらす「工藝」にある深い共通点は、自分の内と、命と向き合う毎日の営みに通じるものがあります。
次なる扉が待ち受けていた。それは、「宗教と哲学」そして最近話題になっている「生成AIと意識」の課題です。このブログで、受動意識仮説をとおして、哲学と宗教の扉が少しだけ垣間見れた。
まだまだ、心の旅は続きますが、精進していきたい。
参考文献は、以下の通りです。
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