「西遊記」が教えてくれた心のありよう・・・西洋と東洋の心のありようの違いが見えてきた

趣味で始めた茶の湯、「日日是好日」の著者である森下典子さんの言葉が頭をよぎる。生きにくい時代を生きるとき、お茶は教えてくれる。「長い目で、今を生きろ」と。四季折々の中で、お稽古を日々重ねていると「自分ではみえない自分の成長」を実感させてくれるのが「お茶」である。

森下典子さんの茶道から得た「心の悟り」を探ってみることにする。

 

「自分では見えない自分の成長の世界」は、脳の働きによる「心」の領域である。茶道をとおして見えない心の世界を覗いてみることにした。

心の意識と無意識
数年前にグーグルの日本法人初代社長の村上憲郎さんの著書「クオンタム思考」の中で、「自己意識」を持ったAIを作るための達成プロセスに欠かせない考え方が、受動意識仮説だと言う。

 

即ち、水が飲みたいと思えば、「無意識」の部分が意思決定し、自分が「意識」できるところは氷山の一角である。最新の脳科学では、「無意識」の部分が人の意思決定をの大部分を担ってきていることが判明してます。

 

意識の場所を深さで表現する場合、インド哲学や仏教などの東洋思想では、「表層意識」と「深層意識」と区分できる。両者のあいだを繋いでいる「あわい」・「イマージュ」の領域があり、芸術が大切にしている領域である。と稲葉敏郎先生は語る。「いのちを呼びさますもの」稲葉敏郎著

 

「自分ではみえない自分の成長」という心のありようを探求するのに、上記の「表層意識」と「深層意識」と区分は重要な役割を果たすのである。

 

西洋と東洋の心のありよう
ここで「心のありよう」を考える場合、西洋と東洋では、異なる。
心のありようで、西洋と東洋とでは、「自然科学」や人間の基礎となる「わたし」そのものの構造に違いがある。


西洋は、「自然科学」を生み出したが、東洋では、古代からすぐれた文化や哲学を持っていたが、「自然科学」を生み出すことはなかった。

又、「わたし」という構造にも違いがあった。西洋では、「自我(Ego)」という意識活動で「表層意識」の中心である。

東洋では、もっと深いところにある「自己(Self)」が、「わたし」の中心に位置している。意識活動だけでなく、深い無意識・深層意識をも含めた全体のことを「わたし」と言う。

 


近代西洋哲学は、「我思う故に我あり」のデカルトからカントまで、「意識」できる世界を中心作られてきた伝統がある。即ち、「表層意識」のみを扱ってきた。

「意識」は言葉によって作られる部分が大きく、その究極が、人工知能(AI)やコンピュータの世界へ行き着く。西洋は「意識」できる世界を中心に作られ、曖昧な「無意識」は存在しない。

 

東洋思想では、「意識」と「無意識」という意識構造そのものを扱ってきた。言い換えれば、「表層意識」と「深層意識」を扱ってきた。


(稲葉敏郎著:「いのちを呼びさますもの」稲葉敏郎著 )


西遊記が教えてくれた仏教の思想の一つ「唯識」(ゆいしき)
心の世界、心のありようは、西洋と東洋では、意識と無意識、さらに、「表層意識」と「深層意識」のでも違いがあります。その関係を上手く説明できる思想、「唯識」がある。

この「唯識」は、四世紀頃のインドで生まれ、意識が階層的になっている。難しい話のようですが、「西遊記」でてくる三蔵法師が、命がけでインドに渡り、17年もの歳月をかけて中国に持ち帰った思想が「唯識」である。

 

 

即ち、「【すべては空である】と考える『心』のみが存在している」を考え抜き、ヨーガという身体技法の実践を伴って得られるものである。
では、西遊記の三蔵法師がインドから持ち帰ってきた教え「唯識」を覗いてみることにする。

 

「唯識」の心の構造は8層
①五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と意識(わたしと感じる意識)の6層
②無意識(末那識・まなしきと阿頼耶識・あらやしき)の2層


我々の意識の奥には、「末那識」(まなしき)がり、さらに奥には「阿頼耶識」という意識の次元がある。「阿頼耶識」には、この世界の出来事のすべて結果であり、未来のすべての原因である「種子」が眠っている場所であり、「蔵識」(ぞうしき)と呼ばれている。

 

古代インド哲学では、「アーカーシャ」の思想が語られており、この「アーカーシャ」とは、宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報が「記録」されている場である。
これらの思想は、量子力学の科学的な理論に基づく「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」と類似したものである。(田坂広志氏)

 

 

東洋思想では、言葉で安易に説明することに警鐘を鳴らしている。又、「自分の心の内を見つめる技法」として、禅やヨーガ、瞑想そして茶道がある。禅は「座禅」や瞑想を通して、ヨーガはアーサナ、そして「茶道」は茶を点てるという「身体技法」を伴う「行」(ぎょう)が大切にされる。

 

 

瞑想」とは、自分の意識の状態を柔らかくほどくことを、意識的に行う行為である。瞑想状態になると無意識の層と意識の層が重なって同時に存在している。

この状態では、自発的に内的な「イメージ」が、「あわい」・「イマージュ」の世界が、頭のスクリーンに浮かんでくる。このイメージを大切に扱うことが、「芸術」に繋がる。絵画や音楽、ダンスへと自然と身体行為をとおしてダウンロードされる。

 

 

「禅」の世界では無意識の層と意識の層が重なって同時に存在していることを「魔境」と呼び、イメージの層に執着しないことを説く。意識の最深部へと一直線に向かい、その世界に触れて元の状態へ戻ってくることを目指す。
そうした体験は、自分自身の存在を根本から揺るがし、自分土台から丸ごと変容させるものになるだろう。それは、自分が死んで生まれ変わるような深い体験として感じられる。

 

 

原田老師(曹源寺)は、「禅は全ての宗教のの基になっていること、それは心の世界や命を見つめること。即ち、食べる、座る、歩く、仕事をするなど、「行動する命・自己」そのものを見つめること」と語る。

 

禅の悟りは、日々の気づきや、自分を変えてしまうような大きな気づきもある。

西洋では、言語を主として思想や哲学を創り上げ、東洋では、言語だけでなく「身体技法」とセットとして、思想や哲学を練り上げていった。

 

混迷する現代社会の必要なもの
「意識」だけでなく「無意識」を統合した全体的なバランスを持った思想、哲学が求められている。具体的には、禅、瞑想、ヨガ・・・の心の技法がある。

 

 

「自分ではみえない自分の成長」(本当の自分)
森下典子さんは、お茶のお稽古をつうじて、自分ではみえない自分の成長を「別の時間」に入り込むことで、見えてくると言う。そこには、お点前の最中、五感の記憶と感情が、ふと立ち現れては消えてゆくのである。と語る。

これは、無意識の層と意識の層が重なって同時に存在している「瞑想」状態にあることを物語っている。

これぞ茶禅一味、「本当の自分」を見つけた心境であると感じた。

 

以下、森下典子さんの「自分ではみえない自分の成長」(本当の自分)とは何かを語っている。

「気持ちよくて、おなかの底から長い息を吐く。目を上げると、向こうに見える庭の椿の葉が、雨に洗われたように輝いている。(わあ、きれい・・・・・・)

その時、私の中には、気がかりな仕事も、将来の不安も、今日帰ってしなければいけないことも、何もない。

かかえている問題が解決したわけでもない。現実は相変わらず、そこにある。・・・・・・だけどその時、私は日常から離れた「別の時間」の中にいるのだ。

目指しても目指しても、お点前は完璧にならない。けれど、「別の時間」にスルリと滑り込むことはいつの間にか上手くなっていた。

お点前に集中する時、私はさらに「濃い時間」に入っていく。指先の小さな動きにも注意を払い(おいしくなれ、おいしくなれ)と一椀の抹茶に心を込める。

すると内側で不思議なことが起こるのだ

いかなる脳のメカニズムがそうさせるのか、遠い子供時代の思い出や、すっかり忘れていた小さな記憶が、ひょいと脳裏によみがえる。

それは、できごとというよりも、「感覚」の断面だ

ある日、町角に漂っていた匂い、夕暮れの雲の色、その時、ラジオから流れてきたメロディー。そして、その瞬間、心に湧きあがった気持ち・・・・・・。

そんな五感の記憶と感情が、お点前の最中、ふと立ち現れては消えてゆく。

そういう時、後ろからそーっと猫が近づいて来たように、誰かに寄り添われているような気がする。

私は、いつの間にか微笑みながら、心の中で、その誰かと対話しているのだ。

(そうそう、そういえば、そんなことあったわね)(忘れてたでしょ)(うん、たった今、思い出したわ)

私は、一体誰と語り合っているのだろう。
昔からよく知っている親(ちか)しい人。
……もしかすると、あれは私自身ではないだろうか?

 

                                  「好日日記」森下典子著

森下典子さんは、茶を点てることをつうじで、「別の時間」に滑り込んだり、「濃い時間」に入っていく。すると心の内側で、不思議なことがおこる。それは、「自分ではみえない自分の成長」(本当の自分)が発見されたときだ。

茶道を志したものは、本当の自分と対話できるようになれるように、精進していきたい。