桜の季節に、毎年訪れる隠れ家がある・・・初めての茶会で抹茶を点てた

桜の季節に毎年訪れる場所がある。それを「私の隠れ家」と呼んでいる。令和になる前から、訪れている私の隠れ家に、一人早朝出かけて行った。

そこは、靖国神社の奥にある「神池」で、池の周りには、茶室が3軒あり、早朝で、人出は少なかった。青い空が水面に反射し、満開の桜の姿が、湖面に鏡の様に映し出され、まさに絶景を醸し出してくれる。

満開の桜を一人ベンチに座り、小さな池の周りの満開の桜をゆっくり眺めている。

ときおり大きな鯉が飛び跳ねる音が、聴こえる。このゆったりした時間が止まった感覚を味わうことが大好きである。

隠れ家にある茶室で抹茶を点てる
今年はその隠れ家での心境が大きく変化した。数年前まで池の畔にある「茶室」で、自分が茶を点てることなど想像すらできなかった。

趣味で始めた茶の湯、茶道の先生が、「靖泉亭」で茶会を雛祭りの日に開催し、一般人をお客として招くことになった。


(茶会を催した「靖泉亭」)

茶会当日は、お天気が良く、早くから列をなした方々に、抹茶を楽しんでいただいた。

今回の茶会のテーマは、「伝統と革新」で、お軸は、伝統的な禅語「別無工夫」で、数茶碗は伝統的なものと異なる民藝の一つである、「小鹿田焼の茶器」でおもてなしすることになった。

昨年の茶の湯九州ツアーでお世話になった「小鹿田焼」のショップ・「鹿鳴庵」のオーナー佐藤様の秘蔵品である「抹茶茶碗」と「お軸」、そして数茶碗は、小鹿焼の飯茶碗、徳利で、茶室を飾った。

お軸は「別無工夫」。
別に工夫無しと読みます。

相国寺、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)の住職である有馬賴底先生筆の禅語。

別に座禅を組んだり特別修行をしなくて、日頃から正しい行いや、自分に与えられた環境中で真剣に物事に取り組む事も修行である。修行は日常あるという意味です。

庶民にとっては、とても親しみやすい禅語です。でも、行うは難しと感じました。

茶室の準備が整いました。


(煙草盆に火を入れる「火皿」は小鹿焼の「飛び鉋」の文様が素晴らしい。


水指、蓋置、建水は、いずれも「小鹿焼」(おんたやき)です。

特に「蓋置」の飛び鉋(とびかんな)の輝きに、一目惚れしまいました。工藝の美、アーティストでない陶工の無心の魂が、美しさを醸し出している。

社中の人以外のお客様を招いた茶会は、私を含め初心者が多く、戸惑いもあった。

緊張感の中、延べ100名弱の方々のおもてなしをして差し上げた。茶会のテーマ「伝統と革新」は、お招きした方々からの、評判は良かった。

隠れ家で茶を点てる心境

私が、最初に茶を点ててることになった。亭主の席で、身なりを整えお点前が始まった。

「美味しくなれ、美味しくなれ」と心で呟いた。実際は、作法を間違えて頭の中は真っ白、冷や汗でした・・・

茶道に入門する前に、訪れた隠れ家での心境と現在では、明らかに違っていた。

コロナ前に茶道に入門、そして作法だけでなく「茶道と禅の心」、「茶禅一味の世界」そして「禅と工藝の世界」さらに、柳宗悦の民藝の世界の美意識にのめり込んでしまった。

このワクワクする気持ちの高揚感は、社中の同志からの「引き寄せの力」が働いていたと思われる。

心の扉が開き見えてきたもの
数年前の「心の旅」京都茶の湯ツアーで、「心の扉」が開き、見えないものが見えてきた。

それは、「自分の心の内を見つめる手法」として、禅やヨガ、瞑想そして茶道があるが、「自分自身の真実」を悟るという共通点は同じであることが見えてきた。

即ち、禅では「座禅」をとおして修行し、茶道は「茶を点てる」ことをとおして、ヨガは「アーサナを行う」こと、

チャクラは、「ワンネスという宇宙と地球のエネルギーを感じながら一体となる」ことを瞑想すること等、「心の技法」で、「自分自身の真実」を悟ることができると感じた。

このことは、私にとって大きな発見であり、心の表層意識だけでなく、深層意識の奥深い場所が何かを観たくなった。このことは心の扉が開き、「豊かな心」を得ることができた瞬間であった。

靖国神社の茶室で茶を点てることをつうじて、おもてなしができるようになった。心の深層部分とは何かを発見したことは、別のブログで、備忘録として残したい。

秋には、靖国神社の茶室で、「立礼席」でお点前することが決まっている。
さらに、精進して一味違う抹茶が点てられるよう心に誓い、茶室を後にした。