茶の湯九州ツアー、念願の小鹿田焼の皿山へ訪れた・・・心の扉が開いた原点は「リーチ先生」だった

九州茶の湯ツアー、猛暑の中、マイクロバスは大分日田の皿山である小鹿田(おんた)焼の窯元を目指した。向かう途中、一ヶ月前の大雨による被害が随所に見られたが、小鹿田の里の住居は大丈夫だった。そこは、青い空に映える窯元の風景が見えてきた。大雨被害で観光客を規制してるため、静かであった。
静寂の中、「唐臼」の音が聴こえてくる。ふと、私の「心の扉」を開いた念願の小鹿田の里が眼前に迫ってきた。小説「リーチ先生」と「バーナード・リーチ日本絵日記」の冒頭シーンが頭の中を過ぎった。この時点では、誰もサプライズイベントがあることを知らなかった。


(小鹿田焼の里の窯元風景:登り窯)
ゆっくりと窯元を歩いていくと、「唐臼」の音と川辺の水の音が、山間にこだまして聴こえる。(YouTube)

(陶芸の粘土になる土を裏山から運び、「唐臼」で砕く)

小鹿田の皿山の人達とバーナード・リーチ
イギリスの陶芸家であるバーナード・リーチが、1954年(昭和29年4月)に来日し、小鹿田焼の里で、約一ヶ月滞在した。「リーチ先生」(原田マハ著)の書き出しに出てくる小鹿田の人々や里風景は、小説の主人公髙市・その父亀乃介以外は、彼の日記「日本絵日記バーナード・リーチ著」に記述された史実と同じであった。

また、小説「リーチ先生」の冒頭には、大分弁が随所に出て、思わず、懐かしさに惹かれて、苦笑してしまう。

私は、リーチが訪れた小鹿田焼の里を「唐臼」の音を聞きながら、窯場を巡って行った。小鹿田の皿山のことは、柳宗悦の「美の世界」、小鹿田焼の良さとは等々、頭の中は知識で一杯だった。それが、一気に噴き出して、「唐臼」の音とマッチして、一人感慨にふけっていた。

(陶芸の粘土になる土を裏山から運び、「唐臼」で砕く)

私の「心の扉」を開けた原点と小鹿田(おんた)の皿山
私の「心の扉」を開けたのは、お茶のお稽古で一緒だった同志から、「一子相伝で作られた小鹿田焼のお皿を我が家に招き入れた」の一言、そして小説「リーチ先生」(原田マハ著)の最後のランズ・エンドを想うシーンに話が及ぶ。さらに日本民芸館の初代館長・柳宗悦の存在も、もう一人の社中の同志から教えてもらった。なんと「心の扉」が開かれた原点は、茶の湯のお稽古の会話から始まったのである。

バーナード・リーチと民藝の創始者柳宗悦
小説「リーチ先生」を読み進めると、バーナード・リーチは、日本民芸館の初代館長となった柳宗悦氏を中心とした「民藝」の同人たち、河井寛次郎、濱田庄司や白樺派の人達と交わり、近代日本の文学や芸術に大きな影響を及ぼしたことが感じ取れる。
私は、その世界である「民藝」の「美の世界」へのめり込んでいった。

民衆の暮らしのなかから生まれたものに「美の世界」を見出した「民藝」の創始者・柳宗悦は、日田の皿山でも「美の世界」を発見した。昭和6年に自ら小鹿田焼の里に訪れた。バーナード・リーチが小鹿田焼の里に訪れる23年前である。そのときの想いを雑誌「民藝」に投稿している。

私が今日はるばるこの日田を訪れるたには、水のためではなく、また春のためではない。・・・・・
この群の山間で貧しく作られる焼物に心を惹かれて来たのである。・・・
(民藝:日田の皿山:柳宗悦 昭和6年5月)

 

 


バーナード・リーチも「民藝」の「美の世界」を小鹿田焼の陶工に見出していた。

彼らの陶業は、農民の技であり、彼らが育てる稲と同じように自然に則したもので、ほとんど美を意識せずに作られている

彼らは、好きでも嫌いでも、ちょうど種蒔きや植え付けや刈取、四季の収穫をするのと同じように、幅の広い実際的専門知識を持っている。それはいつも変わることなく協同一致が基調をなしている。
(日本絵日記バーナード・リーチ著:本文)

 

 

小鹿田焼のルーツ

小鹿田焼の窯元は、「一子相伝」で技術を伝授し続けており、父から子へ子から孫へと受け継がれてきた。従って、十余りも窯元は、すべて代々開業時から続く家々子孫である。

小鹿田の仕事は、実は300年前にこの近くの小石原(こいしわら)から伝えられたのである。いずれの源は、豊臣秀吉がその60年ほど前に荒らした朝鮮にある。当時は焼物が、今の旅券のようなもので、捕虜になった朝鮮の焼物師たちは、封建大名によってその領内に住まわされ、厚遇された。小鹿田と小石原の窯元たちは同族である。(日本絵日記バーナード・リーチ:本文)


小鹿田焼の特徴

素焼きを行わず、釉薬を流しかける手法で、刷毛目(はけめ)、飛び金(飛び鉋とびかんな)、櫛描き等独特の幾何学模様が特徴である。

窯元で、飛び鉋(とびかんな)に実演に遭遇した。

 


(一子相伝の技、300年間も受け継がれている)

(飛び鉋:徳利)

(登り窯)


(飛び鉋:かんな のお皿)

当時の細田知事や役人たちは、戦後の復興に向けて、陶工たちが、農耕をしないですむようになればと力説したが、バーナード・リーチは、それに反対した。まさに、民衆の暮らしのなかから生まれたものに「美の世界」を見出した「民藝」の真髄をリーチは、語っている。

皿山の窯元歩きながら、大分市に住む、同級生のマドンナの皿山の俳句が頭を過ぎった。私に小鹿田の里への旅をすすめてくれた俳人協会の事務局長で、俳句(県知事賞を受賞)が素晴らしい。

「皿山の冬日跳ねたる飛び鉋」

皿山の麓でサプライズ
「唐臼」の音を山間に聴きながら、皿山の麓へ向かった。そこは、小鹿田焼きのセレクトショップ、カフェを運営している「鹿鳴館」



河原でランチ(きこりめし)頂き、鹿鳴館の隠れ家で、茶会が開かれた。誰しも予想していないサプライズであった。このサプライズ茶会は、オーナーと九州茶の湯ツアーの主催者との特別プランであった。

近くの河原では、洪水の後が少し残っていたが、風が川面を撫でるように吹き、自然の中に身を置くことで、五感が刺激され、癒されました。都会人は、田舎の自然に溶け込むことが必須であると感じます。養老先生もこの身体性が、今の現代人に必要なことだと語っています。




茶会では、小鹿田焼の抹茶茶碗で抹茶を頂きながら、オーナーからクルーズトレイン「ななつ星」の食器に小鹿田焼が使われている等面白いお話で盛り上がりました。

茶の湯九州ツアーでは、様々なの訪問先で、日本で初めての「茶会」が設けられ、茶の湯の精神性である「禅」の心や、民衆の暮らしのなかから生まれたものに「美の世界」を見出した「民藝」の真髄を味わうことができた。

念願の小鹿田の里を訪れ、一子相伝の伝統を300年も守り続けているその姿を観ることができ、心に残る感動を覚えた。この企画して頂いた水上麻由子先生加藤尚子さんに感謝いたします。

参考資料

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