戦後75年、終戦記念日に父の自分史
を紐解いてみた。台湾のセメント工場
で迎えた終戦の日、その前後が記され
ていた。
父は、昭和14年3月に徴兵検査を
受け、甲種合格、2年間兵役その後、
旧財閥系のセメント会社に就職し、
台湾高雄工場へ勤務し、数年後終戦
を迎えた。
昭和14年4月から台湾工場での
1年間、戦争は始まっておらず、
台湾は日本の統治下にあり、生活は豊か
であったようです。
1年後に市川の東部第85部隊に入営
兵役に就いた。任務は電気・通信関連
であり、昭和17年10月20日除隊
命令が出た。
真珠湾攻撃が昭和16年12月8日
戦争が始まっていた。
(本文)
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我が家に帰る。現役が家に帰っても
村には老いたた人ばかり。
赤紙が当然待っている。
私は前に勤めてた台湾のセメント会社
に復職を考え両親に話し、承諾を得た。
早速、大阪商船に手続きをする。
昭和18年1月、門司港より台湾へ。
1週間、体を船に預けたまま台湾の
基隆に着く。すぐに「高雄の会社へ
明日出社するので宜しく」と電報を
打つ。
復職の2週間後、乗船してきた船は
潜水艦の攻撃で沈没。と聞く。
やっぱり狙われていたのだ!
運が良かった!
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昭和18年8月までは、工場の操業は
順調だった。夜には、空爆を受ける。
防空壕から外の様子を伺った。
地上より米軍の飛行機に向かって打
った弾丸、真っ赤な火の玉が円を描
いて飛んでゆく。
飛行機からは、照明弾、空爆、射撃。
これが戦争なのだ!
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昭和19年1月、工場の寮の近くに
爆撃を受け、防空壕に入り難を避け
た。
この時、目の前で同僚が爆死した。
この頃からB29の編隊飛行が爆音
を残して飛んでゆく。
セメント工場の生産は、昼間だけ。
空襲警報に左右され、操業は休止
の状態だった。
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昭和20年1月20日頃になると、
寮に通信兵が出入りするようになる。
通信兵の話は、「日本は負けた」との
話が聞こえてきた。
「そうかな?」
半信半疑で聞き流していた。
8月10日になって、8月15日に
重大放送があると通信兵から聞き
敗戦は事実だった。
ラジオ放送を聞いた。
寮の近くで本島人(台湾人)がにわ
かに歓声をあげていた。
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台湾に居る日本人は、昭和20年
12月から翌年3月までに引き上げ
が終わることになっていた。
出典:読売新聞2017.8.14
台湾からの引き上げ:47万9544人
引き揚総数:629万人
(本文)
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又、日中青空裁判が行われ、対象は
会社の守衛、警察の人であった。
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終戦間近、高雄で最後まで爆撃さ
れずに残った港が、終戦近くに爆撃
を受けた。
この時の油タンクの爆発は、真赤な
火炎真黒な煙が夜空に広がり、物凄
かった。
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昭和21年4月7日、最後の引揚船
が高雄港から出航する。
役場で引揚証明書を貰うため会社の
台湾人に道案内してもらい、乗船手続
きを済ませた。
手荷物はトランク1個のみだった。
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引揚船は、米国貨物船を改造、1万
トン級で、船底に案内され狭い部屋
で荷物と一緒に過ごすことになる。
これでやっと台湾からの解放され
晴れやかな気持ち!
反面これからどうしよう??
先は暗闇!!
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4日目以降、船酔いも無くなり元気
になり、寄港先が気になった。
鹿児島港ではなく、広島宇品港に
入港した。
やっと日本へ帰れた!
リンゴの歌が聞こえてくる。音楽を
聞いて気が休まった。
上陸してすぐに頭にDDTの粉をかけ
られ、消毒を受ける。
続いて浴場で身体を洗い流し、
スッキリして宇品に上陸する。
小遣いとして日本円、千円貰った。
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宇品に1泊して、東京までの引上専用
列車に乗り込む。
暫くすると無一物の原野が目に止まる。
これが原爆跡地なのだ・・・
広島駅には真黒に焼けた棒があった。
被曝を受ける前までは、人々を癒し
ていた木だと思うと、涙が出てきた。
列車は各駅でリンゴの歌に迎えられ、
東京駅へ、その足で故郷へ向かう。
東京駅から弟に電報を打ち、迎えを
頼み、大きな握り飯を頬張り、
何年振りかの故郷の米の味だった。
美味しかったよ!!
迎えの車で我が家へ直行する。
只今帰りました。
戦後74年、平和の中で育った人々
戦争体験者は年々少なくなり、
戦争の悲惨さを語り継ぐ機会が
無くなってきました。
父は、終戦を戦地ではなく、民間人
として台湾と言う異国で迎え、
引揚者として帰国した。
生存中に戦争の話は全く聞くことは
ありませんでした。それだけ本人は
辛く悲惨だったことを思い出したく
なかったのでしょう。
終戦の日を迎え、父の自分史を
とおしてその事実を知ることができ、
それを受け継いでいきたい。
終戦記念日にも、きな臭い平和を
脅かすニュースが報じられてます。
改めて戦争の無い平和な世界を
祈ります。
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ります。
自分史に苦笑・・・天国の父の声・・
父の三回忌が終わり落ち着いた頃、
「お父様の自分史」の原稿をお返し
お礼を言いたい旨、茨城県立藤代紫水
高等学校の先生から電話が入った。
学校の授業の資料として使ってるそ
うだ。
実家の近所に住んでいた県立高校の
社会科の石本先生に「父の自分史」の
ノートを貸し出していた。
その先生の主催する社会科研究クラブ
では、父の自分史、大正・昭和・平成
の98年間の時代を勉強したそうです。
社会科研究クラブは、歴史を単に
学ぶだけでなく文献やその時代を生き
た方々の自分史等を題材に活動して
いるとのこと。
父の「自分史」がクラブの研究課題に
役立ったと各部員と先生から報告が
あった。
父の自分史は、90歳を超えてから
書き始めたようです。
過去の新聞記事を集めてその時代の
出来事に、自分の一生を重ねて書き
始めました。
私も改めて読み直し、98年間の
歴史は、あまりにも重いと感じました。
(大正7年3月30日生)
大正時代・戦前・戦争中の怖さ・
戦後のどさくさ、定年退職、定年後
の趣味の世界等、長い人生歴史です。
NHKのTVで「ファミリーヒストリー」
を観るたびに私のルーツにも興味が
湧いてきた。
母方は、戦後の農地改革がある前ま
では14代も続く裕福な地主、
東日本大震災から6年が経ちました。
1度しかない人生で、関東大震災、
東日本大震災と巨大地震に遭遇した人も
数少ないと思います。
関東大震災のくだりがある・・
「1923年、大正12年、私は5歳
昼に地震が起きた。
竹林が家の前20mの所にあるのだが、
子供の足ではあの大きな地震では、
早くと言われても逃げられない。
新聞が2〜3日間止まった。情報は
入らない。
西の空、東京方面の夕日が何時も
真っ赤な夕日が見られるのに真っ暗闇
だった。
4日目頃になると東京火災で焼けた灰
、白と黒の灰が雪の様に降り始め、
4、5日間降り続いた。
デマだが「朝鮮が来る竹槍を用意しろ」
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「98年間の父の自分史」を教材に
使用し、且つ「社会研究クラブ」の
資料に少しでも役立った事に感謝し
ます。
社会研究クラブ員の方々と面会し
若さにエネルギーを貰いました。
今後の彼等の未来に幸あれと願い
つつ指導された石本先生に感謝を
申し上げます。
98年間の自分史の詳細は、折に触れ
ブログに取り上げたいと思ってます。
95歳・96歳作:絵手紙
ここまで読んで頂き有難うござい
ます。
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会社概要と注文方法
会社概要:
「感動と癒しのサービス」を提供するために、業界屈指目利きが直接産地に赴き、
法人向け贈答(ギフト)用高級胡蝶蘭・観葉植物の産地直送を行ってます。
´社 名:株式会社オーキッドプレミアム
´本店所在地:〒151-0053
東京都渋谷区代々木1-31-15 さくらビル3階
´TEL 03-5308-4797 FAX 03-5302-6932
´設 立: 2010年(平成22年)12月24日
´代 表 者:代表取締役: 吉田 茂
´事 業 内 容 :高級胡蝶蘭の産地直送販売/コンサルティング等
´http://sori-yoshida.com
理念:
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