昨年末から年始にかけて、私は数年後のAI社会を説く本を読み耽っていました。技術がどれほど進化しようとも、最後まで残るのは「人間しかできないこと」であり、突き詰めていくと、それはすなわち「生きるとは何か」という根源的な問いに突き当たります。
人生という長い旅路を振り返るとき、そこには三つの道標があるように思います。
①目的地のありかを示す**「Why(なんのために)」。 ②携えるべき荷物である「What(何を)」。 そして、➂一歩一歩を刻む足取り、「How(どう歩くか)」**
私たちはこれまで、この三つの問いとどう向き合ってきたのでしょうか。
「何をするか」に駆り立てられた日々
2025年の朝ドラ『あんぱん』のモデルとなったやなせたかし氏は、飢えと絶望の淵で「Why(生きる意味)」を問い続けました。そして、お腹を空かせた者に自らの顔を差し出すという究極の献身、つまり「What(なすべきこと)」に答えを見出しました。

(2025年TV朝ドラ『あんぱん』のラストシーンで、Whatに答えを出した)
私たち団塊の世代もまた、同じように「What」を追い求めてきた世代です。「ゆりかごから墓場まで」の戦後のベビーブーム時代で、競争の連続でした。
自分自身の会社での立ち位置、家族のため、何を作り、何を成し遂げるか、その積み上げてきた実績は、私たちの揺るぎない誇りでもあります。
しかし、脇目も振らずに走り続けてきた私たちの心に、ふと問いを投げかけたのが、宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』でした。
正直に言えば、封切当時に観たときは、その意味が掴めず二度も足を運びました。しかし、人生の後半に差し掛かった今、「How(どう生きるか)」という観点で観直したとき、すとんと腑に落ちるものがあったのです。
理屈を脱ぎ捨て、「子ども心」に還る
今、私の心を捉えて離さないのは、ポスターに描かれたあのアオサギの挑戦的な眼差しです。
そこには、私たちが長年身にまとってきた「理屈」や「ねばならない」という義務感を笑い飛ばすような、不思議な力が宿っています。
映画が教えるのは、忙しい現実世界から少し距離を置き、自分の心の奥底にある**「深層世界(純真)」**に耳を澄ますことの大切さです。
三つの深層世界の心の風景を、私の「How(どう生きるか)」という観点から、実践している姿を描いてみたいと思います。

(茶道の初釜の床の間への挨拶・茶道の奥底にある禅の心と対話する)
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効率を度外視し、ただ好きなことに没頭する。
私は、70歳の手習いで、茶道に入門し茶の湯の作法に没頭し、日本人の美意識や茶道の奥にある禅の心の大切さに気付いたことがありました。 -
道端に咲く名もなき花に足を止め、その色を愛でる。
利休の教え「四規七則」にある「花は野にあるように」に、子供が持つ純真さを利休から教えて貰いました。 -
理屈抜きに、子どもを面白がるような心で日常を眺める。
私は、瞑想を毎日行っていると、自分の心の「表層世界(自我)」では、自我が強く、「深層世界(純真)」に入り込むと、自我から解放された心があり、子供の純真な心で日常を眺めることができるようになりました。
(茶道をとおして「別の時間」や「濃い時間」に入り込む素晴らしさを語る)
私の「どう生きるか(How)は、大好きな茶道に入門し作法に没頭し、その背後にある日本の美意識である詫び寂びの世界である「禅の心」や民藝の美意識に触れた。 -
行きつくところは、人生後半をどう生きるか、自分とは何かを問い求める毎日の瞑想が、豊かな心を得られてきたように感じます。

(お家元から聡明を拝受し、{宗茂」の初のお点前を披露した)
これこそが、理屈を超えた「どう生きるか(How)」の正体ではないでしょうか。
豊かな心、その一歩先へ
人生の後半を迎えた団塊世代。
重たい「What」の荷物を少しずつ下ろして、軽やかな「How」に重心を移してみる。
それこそが、残された時間を自分らしく鮮やかに彩る、一番の方法だと思うのです。そこにはきっと、かつて置き忘れてきた「豊かな心」が待っているはずです。
効率や正解求めるAI時代には到達できない、人間だけの豊かな「How」を得ることができると思います。
さて、皆さんは今日、どんな「How」で世界を歩き、どんな景色に心を躍らせているでしょうか。












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