最近腑に落ちたこと・・茶禅一味の真髄、「マインドフィットネス入門」から見えてきたこと

新年を迎えお茶のお稽古が始まった。今月は初釜を想定したお点前で、始めて「薄茶点前」をすることになり、内心ドキドキ、ワクワクするこころの高揚を抑えていた。先生から一冊の本、マインドフィットネス入門の本を頂いた。ふと、「茶禅一味」の言葉が頭をよぎり、マインドフルネスとの関連へと興味深々であった。


(マインドフィットネス入門 山田匡通 著)

茶禅一味という言葉は、茶道をやらない人でも聞いたことはあると思います。
「茶の湯」と「禅」と「マインドフルネス」の関係に興味を持って読みだした。

茶禅一味の概念

茶の湯(茶道)は禅宗を起源としているため、「茶の湯」と「禅」の本質は同一であるべきだとする考え方のことを「茶禅一味」と呼んでいる。

最初に、茶の湯(茶道)は禅宗を起源としている「禅」の本質を上記の「マインドフィットネス入門」で探ってみよう。

マインドフルネスと禅
今、マインドフルネスという言葉が欧米で生まれ流行り、日本でも広がり始めました。

これは、瞑想法の一種であり、これをライフスタイルにとりれたIT企業の創業者でもっとも有名なのは、アップルの創業者・スティーブ・ジョブスです。

また、クラウドファンディング・サービスを提供しているセールスフォース・ドットコムの創業者、マーク・ベニオフも瞑想の実践者として有名です。

私も米国IT企業に勤務していたので、彼らの創業から成功までの輝かしい業績を肌で感じていた。

彼らが「瞑想」にのめり込んだ理由は、「ビジネスに役立つ」からで、「革新的」で「創造的」な閃きやアイディアは生まれる土壌が、「禅=マインドフルネス」には、あったからである。

瞑想法の一つであるマインドフルネスのベースにあるのは「禅」である。と著者はいう。(本文)


即ち「禅」とは仏教の創始者である釈迦牟尼仏陀が修行したその修行法(瞑想法)であるという。

「禅」とは仏教の創始者である釈迦牟尼仏陀が修行したその修行法であり、座禅は瞑想の果てに心理を悟ったその修行法を使って座ることを指しており、いわゆる一般的な意味での宗教ではありません。ただ座るだけなのである。(本文)
マインドフルネスは、「今現在」に集中する状態を大切にしてます

マインドフルネスの目的と効果
集中力アップとストレスの軽減
多忙な現代社会の中で病弊した心や神経を瞑想によって、心身共にリフレッシュし、

もともとの健全な状態に戻し、生活や仕事に良い影響を与えることを目的にしている。

マインドフィットネスの目的と効果(著者の提言)
マインドフルネスの効用に加えて、さらに自らの精神を鍛え、他者の幸福を願う心を育成し、創造性やイノベーションを起こす力を醸成することを目的としているのです。

マインドフィットネスは、「リーダーのためのマインフルネス」と定義することができるでしょう。(本文)

禅の歴史(日本と欧米の違い)

釈迦牟尼仏が実践した「禅の瞑想法」は、達磨(だるま)大師により中国への伝えられた。

日本へは、鎌倉時代に禅宗として、栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗として、中国から持ち帰り布教した。

日本では、「禅」は禅宗の中で、修行法の一つとして発展してきた

一方、欧米では、「マインドフルネス」は、瞑想法の一つとして、一般社会の中で、独自に発展してきた。

そして、近年、欧米で発展してきたこのマインドフルネスが日本でも注目を集めることになった。(本文)

マインドフィットネスの本質(「釈迦牟尼の瞑想法」の本質)

釈迦牟尼の実践した瞑想法の本質が、「自己を忘ずる」修行であるからです。

この「自己を忘ずる」とは、「自」と「他」の垣根を取り払うこと。そして、「利他の精神」「一つの世界」などといった言葉と同じ世界を意味してます。

毎日コツコツと座禅による瞑想を継続・実践することで、その実践した程度に応じて「自」と「他」の垣根が次第に薄まっていき、自他の「一つの世界」が広がる。

「自」と「他」の垣根を取り払うことの「他」とは・・・

「自分」以外のすべてが、「他」のです。文化、制度、構造物などのじぶんを取り巻く社会現象はもとより、水、空気、光、音、山、皮、月、星などの自然界に存在するすべてが「他」の対象になります。(本文)

近年、禅/マインドフルネスの効果は脳科学でも証明されています。

以上、「茶禅一味」の「禅」の本質は、釈迦牟尼の実践した瞑想法であり、

「自」と「他」の垣根を取り払うこと、「利他の精神」・「一つの世界」につうじる世界である。

「茶禅一味」に話を戻しましょう。
釈迦牟尼仏が実践した「禅の瞑想法」は、インドから達磨(だるま)大師により中国への伝えられた。

日本へは、鎌倉時代に「禅宗」として、栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を、中国から持ち帰り布教した。
従って、日本では、「禅」は禅宗の中で、修行法の一つとして発展してきた。

茶の湯と禅宗


「茶」は禅宗の僧(栄西)によって鎌倉時代に 薬として 日本へ持ち込まれ、禅宗の普及と共に、「喫茶」の文化も広まっていきました。

そして、千利休の弟子である 山上宗二は 「茶の湯は禅宗より出たるに依りて、僧の行を専にする也。珠光・紹鴎・皆禅宗也。」と書物に書いています。

千利休は禅宗の大徳寺の古渓宗陳らに参禅して修行しました。

千利休は、禅宗(臨済宗)の大徳寺の古渓宗陳らに参禅して修行しました。
更に武野紹鷗に師事し、「わび茶」の精神を学びます。

ここで、茶禅一味とは、「禅」の本質、内面的な「自」と「他」の垣根を取り払うこと、「利他の精神」・「一つの世界」につうじる世界を「茶の湯・茶」でも引き継いでいると思われる。

茶の湯を習い始めて数年の若輩が「茶禅一味」、マインドフルネスに興味を持ち、長々と「禅」とは、「茶」とは、と書いてきた。

実は、茶の湯のお稽古をするものが、以下の「腑に落ちる瞬間」に遭遇したことの布石だったのです。


腑に落ちたこと
お稽古をしてる先生のHPにそのヒントがあった。
”400年以上にわたって受け継がれてきた「茶の湯」とは、自然の移ろい、伝統文化の美意識、生き方の哲学を味わう空間です。

自らの心と五感に向き合い「一服の茶」「いまここ」に集中する時間は「禅」の世界です

陰と陽、静と動、吸って吐く呼吸、自分と環境とを調和させるもてなしの心、和敬清寂の精神によって人生の豊かさを手に入れます。”

その腑に落ちた瞬間を森下典子著者「好日日記」(季節のように生きる)に発見した。

「茶の湯」のお稽古をとおして「禅」の世界に入り込んでいく内面の姿を、淡々と見事に表現してる文章に遭遇した。

まさに感動して、飛び上がる思いで、その文章を書きだした。茶道が禅の世界と一致した。

これこそが「茶禅一味」の境地、マインドフルネス(瞑想)の境地だと思う。

では、その腑に落ちた瞬間を味わってください。

 

武田先生の家でのお稽古して、茶室から庭を見ている姿を思い浮かべてください。
「気持ちよくて、おなかの底から長い息を吐く。目を上げると、向こうに見える庭の椿の葉が、雨に洗われたように輝いている。(わあ、きれい・・・・・・)

その時、私の中には、気がかりな仕事も、将来の不安も、今日帰ってしなければいけないことも、何もない。

 

かかえている問題が解決したわけでもない。現実は相変わらず、そこにある。・・・・・・だけどその時、私は日常から離れた「別の時間」の中にいるのだ。

 

目指しても目指しても、お点前は完璧にならない。けれど、「別の時間」にスルリと滑り込むことはいつの間にか上手くなっていた。

 

お点前に集中する時、私はさらに「濃い時間」に入っていく。指先の小さな動きにも注意を払い(おいしくなれ、おいしくなれ)と一椀の抹茶に心を込める。

 

すると内側で不思議なことが起こるのだ

いかなる脳のメカニズムがそうさせるのか、遠い子供時代の思い出や、すっかり忘れていた小さな記憶が、ひょいと脳裏によみがえる。

それは、できごとというよりも、「感覚」の断面だ。

ある日、町角に漂っていた匂い、夕暮れの雲の色、その時、ラジオから流れてきたメロディー。そして、その瞬間、心に湧きあがった気持ち・・・・・・。

 

そんな五感の記憶と感情が、お点前の最中、ふと立ち現れては消えてゆく。

 

そういう時、後ろからそーっと猫が近づいて来たように、誰かに寄り添われているような気がする。

 

私は、いつの間にか微笑みながら、心の中で、その誰かと対話しているのだ。

(そうそう、そういえば、そんなことあったわね)(忘れてたでしょ)(うん、たった今、思い出したわ)

 

私は、一体誰と語り合っているのだろう。
昔からよく知っている親(ちか)しい人。
……もしかすると、あれは私自身ではないだろうか?

 

なんと素晴らしい「茶禅一味」の世界を垣間見てしまった!
茶の湯も禅の世界も座学ではなく、日頃の「実践」をとおして、成長することが出来る。
お稽古でお茶を点てることに集中して、おいしくなれと一椀の抹茶に心を込めて精進したい。
コロナ禍の中、日々お稽古に研鑽して、森下典子さんが味わった「茶禅一味」の世界を垣間見たい。禅の瞑想法で座ることも継続していくつもりです。